朝の眠さや暑さや寒さや呪いの中、わざわざ高架橋を通ってまで避ける駅に隣接した踏切を、坂登りの億劫さから帰りは毎回通る。で、大抵はそこで引き止められる。2〜3分で開けばかなり良い方で、ダイヤが乱れていたりすると、10分でも15分でも開くのを待つ。その時の電車は乗客の顔をばっちりと確認出来るくらいにゆっくり進んで、まぁドアの前に立っている人と目が合ったりもする。あちら側から見たら、物欲しそうな顔でもしているのかもしれないな、と思いながら過ぎるのを待っていると、次に逆方向の電車が訪れ、そうしているとまた逆方向から今度は駅に電車が止まり、踏切は開かない。その電車が過ぎてやっと開くだろう、と思った次は大抵、回送電車が通る。人を乗せていない電車は待っているこちら側からすれば不必要極まりない。そんな憎しみに似た視線は、でもぶつかる所もなく、照明の落ちた車内を通って、対岸へと突き抜ける。対岸からもこちらに降り注ぐ。そんな中を、乗客のいる電車と変わらない速度で、回送電車はゆっくりと走り抜けていく。
と、開かずの踏切で考えていたら、ふと堀江敏幸の著書であったな、と思い出した。
いつもより1時間も早く目が覚めて、よしとばかりに二度寝をしたら出勤時間を少し過ぎてから再び目が覚める。ずっと、目覚まし時計と使っていない携帯で問題無かったのだが、確認してみると、目覚ましは電池が終わっていて、携帯は何故かマナーモードに。使っている方の携帯にはいつもの起床時間頃にメールが届いていたのだが、そちらもマナーモード。自転車通勤だから殆どマナーモードにすることもないし、ましてや目覚ましとして使っている携帯はアラームセット時以外には触りもしないのに。働き詰めの毎日で、気持ちでは分からないでもないものの、これで二度目の遅刻。
書き留めることを後回しにしていると、いつの間にか呪いの言葉に覆われて、思ったことを覚えていても、何を思ったのかを忘れてしまう。
本当に寒いよ、と何度も念を押されていたから、昼間の東京には流石に暑いな、という格好で帰ったのだが、長野に降り立つとすぐに震えが始まった。車窓から見える風景に秋もそろそろ終わりか、と思っていたが、もう冬に入っている。方々で志賀高原では既に初雪があったと聞く。
密かな企みを持って荷の底に詰めたビデオカメラは、結局5分程しか回さなかった。1年以上触っていないし、持ち歩いてもいなかったから、持ち帰ったことも殆ど忘れていた。帰宅直前の午後に思い出し、信濃美術館へ行った帰りにそのまま屋代の田園地帯まで足を伸ばして狼煙を探すが気に入ったものが上がらなかった。ふらふらとしているうつに森将軍塚古墳を真似て作ったというにしては小さな展望台のある公園に辿り着き、仕方なしと操作を思い出す程度に暫く回した。後は断片。不満の残る形で東京へ戻り、テープを再生してみると、でも、そこには自分の映像が映っている。写真よりも映像に自身が映っている。だから、こんなんじゃあ金にならない、と思う反面、これで良いじゃん、と思ってしまう。
やはり、疲れているからだろう、気付けば垂直に近い角度で地面を見つめている。過ぎた筈の夏を引き戻したような鹿児島、沖縄から清里を訪れると、厚着をしたと思っていた身体を震わす程に季節は冬に向かっていた。山間の雲は重なったり離れたりと、視線の先に映る自分の影の濃淡を刻々と変えていて、ふと、子供の頃も同じ様に影を見た事があったな、と10秒間見つめて空を見上げてみる。そこに映るはずの影はない。こちらも疲れからだろう、ここの所、たまに少し白く靄が掛かったようになる視界で見えないのか、と暫く目を閉じて、再び試みたがやはり映らない。大人になると見えなくなるんだよ、とドラマやアニメのように耳元で囁く子供の自分が憎たらしい。振り払っては忘れ、気付けばまた影を見て空を見上げる、という事を何度も繰り返して、そろそろいい加減諦めろよ、と聴こえた途端、空に白くぼやっと影が映る。きっとずっと映っていたのだろうと思う。ただ、影だから黒く映るのだ、と思い込んでただけで。今度は今の自分が、大人になると見えなくなるんだなぁ、と呟く。
日にち自体に意味を持たせないようにして過ごして半月ちょっと。仕事ばかりしていて、自分の生活が成り立たなくなってきた。休みも期待しなくなったから、全てが止まったように動かない。得てる事もあるのだろうけれど、それが反復であり、その為にある程度レスを自分で与えてしまっているから、じゃあ後はどう実践するかの問題で、現状、こちらにも意味を持てないでいる。
行く暇も無いし、そもそもが苦手だから、と美容師に、もうちょっと、もうちょっと、と重ねて久しぶりに髪を短く切る。普段からあまり鏡を見る方ではないけれど、ふと視界の隅に映る姿が何とも気恥ずかしく、更に鏡から遠ざかりそうな気はするが、でも見慣れぬ姿にまぁ何か少し楽しくもなる。
プリンタの調子が良くないな、と以前から思っていてはいて、でも今はそれ程にプリントするものも無いと脇に置いていたが、いざプリントしようと思うと、やはり調子は変わらず、全体にマゼンタ掛かってしまい、これも安く中古で買ったものだから、と店頭へ行ってプリントサンプルを見比べてから新調。精度の違いは明らかで、色調も思っていたものに近くプリントはされたが、やはり、これはプリンタの問題では無くてモニタの問題だろうけれど、見ている色とは若干ずれる。プロファイルを作れば何とかなりそうだけれど、何れにしても使い倒し気味のノート端末は最近悲鳴を挙げ始めてハード側が壊れ始めた。まだ取替え可能部品だったり、外付けで何とかなりそうなものなので堪えてはいるが時間の問題か。
いつの間にか9月も下旬に入っていて、事務所から見えるつい先日まで底の水色を反射させていた小学校のプールも既に緑色になってしまい、自身の服装も知らぬ間に夏を後ろへやっている。そうやって春も夏も過ぎて、秋も同じ様に過ぎそう。無意味なことと無駄なこととは違うと思っていても、その区別が付かないから、結局無意味に落ちてしまう。そしてこれもまた無駄なんじゃないか、とも思う。
前歯の隣の歯間に異物が入り込んだ感触を舌が感じ取って、楊枝で掻き出そうと試みたが楊枝の先が歯間に詰まってしまい、間抜けさに呆気に取られる。詰まった楊枝を楊枝で掻き出したが違和感は残り、過ちを繰り返すのはそれこそ間抜けだ、と歯ブラシで20分も30分も磨くが効果無し。耐えられないとコンビニまで行き歯間ブラシを買ってきて漸く異物など無いことをしぶしぶながら納得させた。シャワーを浴びて出てくる頃には、しぶしぶささえ忘れていた。
果ての闇を抱き込んでしまったような夜に、バスが2時間に1本通るような田に挟まれた道を行き来する高校生の少年が浮かぶ。浮かぶというよりは、それを、道に平行に、地面に水平垂直に立てられた固定カメラから覗いているような。大体が同じ、何かを考えてるような考えていない様な、前を見ているようで見ていないような顔だったが、見続けるうちにその変わらない表情の中に表情を見る事をし始める。たまに自転車をひいている時もあったり、傘をさして歩いていたり、バスに乗っていたり、立ち漕ぎをしていたり、荷台に人を乗せていたりする。ただ行き来を繰り返すだけの光景に、あぁ、これは記録映像なんだと気付く。白い息を吐きながら変わらない表情で少しだけゆっくり自転車を漕ぐ少年でこれは終わる。ここが果てなんじゃなくて、ここからが果てなんだ、と抱き込むまでもなく広がっていた暗闇に、なぜこんなにも幸せなんだろう、と叫びたくなった。
物語は泣く瞬間ではなくて、つまらない間にあるんだよねぇ、とぼんやりと考えていたら、テレビから、身近なことを撮りすぎている、という声が聞こえて視線をテレビに移すと、奇抜な映画で好評らしい映画監督が、もっと大胆に例えばスピルバーグのような映画を撮りたいとか...、と続けていた。身近なことってそんなにも撮られているだろうか。
最近、最後にと残しておいた好物を掠めとられそうな予感に焦っているのかもしれない。1ヶ月程、茶を習いたい、と言い出すと、その途端に呆れられてしまう。全く持って真意を伝えられていない言葉にその真意を瞬間的に汲み取っての呆れには恐れ入るが、でもまだこの時はその真意さえも自分自身では掴めずに、やはり作法のことを言っていたと思う。知らぬ間に絡んでいた結び目をひとつひとつ解いていくと、成る程、これは呆れるわ、と納得した。
茶はただ茶でしかない。人もまた然り。そこに作法などいらない。でも、想像すると茶室は不思議なところだ。茶室という空間に過不足なくおかれたモノが、それぞれに敬い、溶け合い、透き通って初めてそれぞれが輪郭を持って作られる。その中で不自然に振る舞えるのは人だけで、だから作法がある。一瞬という永遠、永遠という一瞬の流れを塞き止めないように。
取りあえずは、心の中に茶室を作りなさい、と助言を頂く。これはなかなか難しい、とまずは正座の出来ない身体を何とかしようと、座布団を敷いて、正座をしながら本を読むことを始める。
茶の流れから、岡倉天心の茶の本を抜粋、意訳した本のお茶を読む。どうも意訳し過ぎていて、本来の意味が少し変わっているように思えて、青空文庫で公開されたばかりだった茶の本を読む。正座して。
見知らぬ地で、程々に酒に酔った頭で、パソコンのモニタを眺めているうちに寝てしまった。起きてみると、テレビでは眠りに落ちる前と変わらずオリンピックの野球が流れており、時計を見ても30分程のことだったが、何故ここでこうしているのだろうか、と掌の上に置いた圧縮させた時間を転がすように狭いシングルのビジネスホテルの部屋を見回した。何をしているのかも、何故ここにいるのかも、全てを分かっているのにどうしても腑に落ちない。取りあえず翌日の準備をしようと立ち上がると、全身にへばりついていた乾いた泥がボロボロと砕けて落ち、椅子を作っていたはずだ、という思いが旋毛のあたりに残り、それからまた土に染み込む水のようにゆっくりと身体を覆い始めた。翌朝は樹齢500年程の太い幹を手に入れ、継ぎ目の無い緩やかな曲線を座板としたベンチを作ろう、と浮かんだ瞬間に恐ろしくなって、風呂に湯を張り飛び込んだ。アルコールが蒸発していくと、浮かんでいた情景や暮らしが湯気となって消えて行く。風呂からあがると、まだ野球が流れていたが、どうやら日本は負けたようだった。
お盆は仕事で初めての盛岡へ。柏崎を訪れた記憶も新しく、震災の爪痕が残っているのだろうかと窓の外に目を向けるが、柏崎で見たような光景は無い。帰宅して調べてみると、建物被害が少なく土砂災害が多い、とのこと。二度目の東北だったが、やはり空が広くて近い。天候は一進一退を繰り返していて、仕事の上では生憎の天候と言わざる負えないようだが、個人的には美しい空を見られたと満足する。
昨夜の雨の為だろうが、朝から肌に汗がべとつく。以前はこれ程に汗はかいていなかったから、これを思えば健康体になった、と喜ぶべきだろうか。夕方になるとまた雨の降り出しそうな雲が空を覆い始める。が、降らない。夜中の3時過ぎでも蝉の声の聞こえる場所だからか、まだこれからゆっくりと空を覆えるだけ覆って、また夜中に降り出すのだろう。
雨の多い街で暮らそう、と帰りがけに雨雲を見上げた瞬間、ふと浮かぶ。雨ばかり降っている街。太陽は雨の止んだ後の霧の向こうに、予感のように浮かぶだけで、また厚い雲に遮られてしまうような。じめじめとした部屋の中で、いつまでも乾かない洗濯物を吊り下げて、河口に近いだろう幅を持つ川の上を渡る小さな舟を窓からぼんやりと見ている。
話題のストリートビューで雨の降る街を探してみたが見つからない。探索能力が無かっただけかもしれないし、撮影時のハードの問題なのかもしれないけれど、どうせなら、雨や雪での風景も見られれば良いのに。
何時に寝ようが起きる時間が重要だよね、気分的には遅い時間に起きる程寝た気になるな、と考えながら、朝3時過ぎに事務所まで自転車を漕ぐ。新聞配達の人のように、1日を迎えた仲間もいるが圧倒的に、これから1日を終える人が多い。羨ましいというよりも恨めしいという気持ちで眺める。
初めて行った箱根だったが、避暑地だという割には予想以上に暑い。そしてコンビニが多い。仕事だからポイントでしか動いていないけれど、東京から近いから開発が進んだ為なのか、時期的に人が多い時だからなのか、人工的な、大袈裟に言ってしまえば、空気は都心と変わらない無機的な臭いがした。車を運転している感覚も、山を運転しているというよりは、山っぽい所を運転している感じだった。プライベートで来たらまた違うのだろうか、とも思うけれど、果たして今回の印象でプライベートで来ることがあるのだろうか。
雷が鳴り始めたので雨が降り出す前に東京へ向かう。途中、雨が降り出す。時間が早かった為か1時間ちょっとで都心まで戻れた。車を降りてもやはり身体が感じる空気は同じ。
盆休みが無くなった替わりの休みが二度の変更を経て、日曜からの4日間になり土曜の夜に長野へ。びんずるの直後に着いてしまったので、駅前はアルコールの匂いで満たされていて、気分が落ち込む。簡単に夕食を摂ってさっさと帰る。
休息をとるはずが、戸隠、新潟県(燕市まで)、上田、とカメラを携えて動き回っていた。だが、写真を撮る、というよりも、そこへ行く、という事が先行していたように思う。これは逃避だと、自身で気付くのは簡単だった。長期の休みになったらやりたい事もあったし、お盆に重ならなかったことで長野ですべきことも無かったのに、すぐに長野へ帰ろう、と思ったことからでも、帰りの新幹線の中で撮りたいものが何も浮かばなかったことからも容易に辿り着ける。ずっと何かを撮りたがっていたのに、その何かが分からない、というのは結構辛い。今回、色んな場所へ身体を運んで、その中で撮った写真を東京へ戻ってから眺めてみると、まぁ動いた割にはいつも通り枚数は少ない、ということが目立つけれど、何か、ということを意識していたお陰か、自分の写真が何を撮っているのかということを見られた。言葉にすれば、それはただ、光景、なんだと思う。現実、と言わなくても、マチダさんも言ってたように、気が振れてるように思われそうだ、と苦笑うしかない。けれど、まぁそうなんだ、と。でも、だから、写真で稼ぐのは自分にはやはり難しそう。これもまぁ苦笑うしかないことか。
時間は滞り無く刻々と消費されていくのに、言い訳を与えては何も生産しない休日。こんなはずじゃ無かった、と言っても慰めにすらならない。心も消費されていく。
午前中に妹から夏野菜セットが届いたので、久しぶりに料理でもしようかと夕方になって買い出しに出掛ける。料理と言ってもカレー。近所の商店街は夏祭りで人が溢れ返っており、通行も侭ならない。きっとでもこれは出店の匂いのせいだな、と焼き鳥や焼きホタテやビールやらに後ろ髪をひかれつつ、少しだけ安い駅前のスーパーへ。その前に本でも、と書店へ寄るが改装中。もう1件の方は立ち読み客が隙間無く並んでいて、本を眺めることすら出来なかった。部屋に戻り、野菜を煮込みながら、ここの所ずっとモノラルだったスピーカーを調べ、一度ラインを外して端子を新たに作って繋ぎ直す。ステレオに戻ったスピーカーの音を聞くと、以前はこんな良い音を聞いてたのか、と情けないような気持ちで喜ぶ。カレーはまぁ上出来。外食やコンビニ弁当ばかりだと、どうしても身体は食を感じてはくれない。摂取に近い。人の手で作る、その時のその場に並ぶ料理はゆっくりと身体に馴染む。
先月末の休みから、半月程だが、あれから休みがない。忙しいのなら体力の消耗に、はぁ疲れた、と言ってれば少しは慰めになるけれど、そうでもなく、ただタイミングと時間の構築に所以があるから心はささくれ立ってくる。この無駄な時間をくれよ、と。割と上手くやってる積もりだったけれど、なぁ。
この土日は休みか、と思っていた矢先に土曜が消えたが、朝、母親から相談事の電話があり、来週あたりに長野へ帰ろうかと思っていたが、色々と今週の方が用が足せそうなので、夕方の新幹線で帰ることにする。東京は朝から、朝と思えぬ程の暑さなので、丁度良いかもしれない。
晴れと雨の往復を繰り返す天気予報のどこを見たらよいのか。結局、土日は夏とも言える気温を伴って晴れた。いや、もう7月だから、夏らしい、のかもしれない。
ただ都心の暑さにはただそれだけで疲弊していく。頭上から真っすぐ突き刺すような日射しの暑さではなく、行き場を失った暑さがその重さで地面近くを出口を探して這い回っている。一歩踏み出すのにもその中を押し進む力がいる。これはきっと人間には耐えられないんじゃないか、と思ってしまう。今まで経験してきた身体を突き抜ける暑さの方がまだ気持ちが良かった。皮膚だけではなく、いつ止まるんだ、と心まで炙られてる気持ちになる。
代々木公園付近で黒人が警察と揉めている光景を目にする。仕舞いには警官が警棒で黒人の脹ら脛を打つ。暫くして戻ってくると、パトカーが数台に鑑識まで来ていた。その傍らには黒人の子供が恐らくは日本人と思われる女性の裾を強く握って立っていた。何があったのかは、音を聞き取れる近さでは無かったから、まるで分からない。けれど、心は痛む。ここ1週間、1分も歩けば警官の集団に必ず出会った。
休みではない土日は、その不満を振るい落とすように不満を叫んでいたが一度も声帯を振るわすこと無く過ぎた。終わった、と思う間も無く、新たな週が始まってしまう。
雨の日は好きだけれど、通勤に自転車を使えないから、電車に乗らねばならない。朝はいつもよりずっと家を出なければならない。基本的にダイヤは乱れる。電車に乗るにはまず闘わねばならない。他人を気にしている余裕などない。いざ乗ってもまた戦場。今度は自分との。四方を塞がれ、親父の吐息を首筋に感じながら揺られる。後ろの若者の帽子の鍔が揺れるたび背中を刺す。気を抜けばすぐにでも全身を覆いそうな発狂の波で、降りる頃には茫然自失、我先に降りようとする人波にクルクルと回され流される。雨の日は好きだけれど、自転車に乗れない。
9時に帰れたから色々出来るぞ、と料理を作り、ネットで情報収集をして、本を読んで、ちょっとゲームして、シャワーを浴びたら、もう1時を過ぎていた。映画を観るつもりで行動していたはずで、映画を観ることの他に色々出来るぞ、と思ってたのだが、本末転倒。何となく、早く帰れると以前の自分の時間感覚に戻ってしまい、どこか時間は無限にあるような気になってしまう。明日旅に出よう、と思い立ってしまうのを最近は毎日のように恐れなければならいのが悲しい。
2ヶ月振りの連休(記憶では)になったので、溜めてしまった作業を一気に片付けようと思っていたのだが、金曜の午後からの頭痛もそのまま持ち越してしまいあまり、というよりも全く捗らなかった。日曜はほぼ寝て過ごす。頭痛を抑え込もうとバファリンをずっと服用していたが効かず、イヴを飲んでみるとこちらが効く。ただ痛みを抑え込んでいるだけのようで、鈍い違和感は残る。動けるようにはなったことで、夜、新宿駅まで出ると、服の下に入り込んで肌をそっと撫でて行く夜風が心地良く、そのままフラフラと歩き回る。擦れ違う人に疲労感を漂わせている顔は少ない。歩き次いでに先週手に取ったものの買わなかった雑誌をやはり買おうと、南口の紀伊国屋に歩を向けるが閉店時間は疾うに過ぎていた。諦めて駅に向かうが、帰宅したらまた頭痛が再発しそうだと、駅を通りすぎて西口へ向かい、スタバを覗くが席が空いていなくて、マックでコーヒー。そういえば、このコーヒーを先週の秋葉原の事件現場の近くのマックで以前無料で飲んだな、と思い出す。時期は全く違うけれど、あの時起こってもおかしくは無かった。この1週間の犯行予告を見てると生活の殆どを過ごしている渋谷も標的にされていて、犯行予告の殆どは悪戯なのかもしれないけれど、中には本気のものもきっとあると思うとぞっとするけれど、心地良い風に当たりたいんだからどうしようもない。雑然としたマックで1時間程読書をして帰宅。
帰宅してみると家電の留守電ボタンが点滅していた。契約関係の書類以外には教えていない番号だからこの電話が鳴ることは殆どない。再生してみると、私だけど...、とお婆さんの声がした。私だけど連絡がありました。私は何も知らないけれど。と。この現実からシナリオを書き始めても良い。こうゆうことが始まりにはなる。それで想像の境界線を越えられるのか。ここが問題。
ゴールデンウィーク前に発症して1週間程苦しめられた腹痛と倦怠感が再発。また暫く続くのかと思うと、それだけでまたお腹が痛くなる。ただ今日漸く夜も空腹感を感じるようになった。
久しぶりにテレビを見たがすぐに消してしまう。つけた時間が悪かったのかもしれないが、それにしてもどのチャンネルにも食指が動かなかった。CM以外も全部広告、みたいな。特にドラマはそんな感じ。
土曜の代表戦とEUROで気分が盛り上がってしまい、日曜の朝に新幹線に乗って長野へ帰り、正午過ぎからのフットサルのリーグ戦に参加。東京に来てからは練習は疎かボールにさえ触っていなかったから、身体が自分のものとは思えない程に動けなかったけれど、久しぶりに楽しかった。でも試合自体は惨敗。負けて楽しかった、とは...。
試合後は一度市内に戻り(試合会場は小川村)、疲労感から迷った挙げ句、でも折角だからと飯綱方面へ。疲労感が僅かづつ抜けていく毎に増す空腹感から、ハングリーキャタピラーへ寄ってクラブサンドとコーヒー。東京では殆ど口にしていない生野菜がおいしい。でもそれよりも、東京ではペットボトルを買っている、無料の水がおいしい。こんなに水をうまいと思ったのは初めてかもしれない。フットサルよりもこの水に長野に帰ってきて良かった、と思った。そのまま飯綱リゾート方面へ向かって、少し撮影。雨でも降ってくれればと思っていたが、薄い雲が重なって作る拡散光も綺麗。時折、一重になった雲の向こうに太陽が見える。
山を下ってから、妹のパソコン選びのお供でヤマダ電機。地デジ対応品が欲しいというので売場で見ていて、そこで初めて秋葉原の事件を知る。何時か読んだ小説や漫画にあったような事件だったから、どこか現実感が無い。想像力の欠如だろうか。地デジ付きは高いから、と妹は地デジ無しモデルにするみたい。
夜は実家にて、少しずつ言葉を発するようになった甥と夕飯。未だに最初は怖がられている。夜中の夜泣きと全身に表れた筋肉痛で睡眠は浅い。朝、新幹線に乗り、そのまま渋谷へ出勤。昼飯の弁当はいつも食べているものだけれど、今日はただ殺人的なものとしか思えず、その後、夜になっても食欲が湧かず、リンゴジュースのみを摂る。また味に慣れていくのだろうけれど、出来ればおいしいものを食べたい。
急に冷え込んだここ2日間の雨で、もう6月か、と気付く。まだ先週がGWだったような気がしないでもない。先月友人に、1週間は早いけれど1ヶ月は長い、と漏らしたが、5月はまるで無かったかのように過ぎた。ひとつひとつを手繰り寄せれば、勿論そこから様々な記憶が起こされてくるけれど、まぁ何と言うか、それはまたいつか、という感じ。取りあえず、朝のラッシュで押しつぶされて骨が折れてしまってヘロヘロになった傘を買い替えないと。でも、6月だ、と言っている先から、事務所から見える小学校のプールは、緑色から水色に模様を変えて、お掃除ロボットが昼夜問わず静かに水の底を徘徊し始めてる。
往復での運転時間で言ったら4時間ちょっとと大したことではないけれど、朝5時起きで、夜帰るまでの間も休むことは出来ないから、いくら25歳だと言えども人間だがら流石に疲れる。自分以外は寝ているという見慣れた帰りの車内で、これって結構危ないよね、と沈む夕日を見ながら思う。運転していることの意味は形式的なこと以外無い。ただ、運転することで得られるロケーションは得難いものだな、と思う。出来ればロケバスで、と思ったりもするけれど、ロケバスなら勿体ないと思いつつもやはり寝てしまうから、車窓からの景色はカットされてしまう。何れにせよ、全員何事も無く無事だったことで安堵する。
かくこと以外に大事なことがあるのか、とポロッと口をついて出た言葉に苦しむ。そのこと自体の重さというよりも、軽さに。重かったら潰れてしまえば良い。軽いからこそいつまでも手の上にある。そのことに気付いてしまうと、というよりも、再び意識の内側に入れてしまうと、行動が伴っていないこともあって、辛い。では、じゃあ行動に移せば、ということになるのだが、軽いからそう簡単には踏み込めない。でも、取りあえず今日は、そんなことに悩まされる夢をみても構わないから、まず寝よう。眠い。
GW前から1週間程続いていた腹痛は完治して、少し遅れて併発した風邪もやっと治まってきた。働きながらも治って行く治癒力に驚きつつも、原因もやはり働き続けていることなのかもしれない。気付かぬうちに疲労はたまって、腫瘍を残してく、ということだろうか、いつのどれのかも分からないけれど、代休が取れた今日、いつもの時間に機械的に起きながらも、そのまま浅い眠りを続けた結果12時間近く寝てしまった。寝惚けた頭は、季節外れの寒さに、働き始めた頃に巻き戻って、過ぎた予定を思い出させた。コーヒーをいれてボーッとしながら、徐々に昨夜からの連続した自分に戻って、昨夜終わってしまったプリンタのインクを買いに行かねば、と着替えて買い物に出た。外は本当に冬に戻ったようで、外気温計も13℃を示している。季節的には血迷ってはいないけれど、半袖などを着た人は腕を摩りながら歩いていた。東急ハンズでA4ファイルと万年筆っぽい水性ペン。ビックカメラでインクをセットで購入した後、本屋に寄り色々と手に取るが、手に取る本全てがかさ張るものばかりで、アマゾンにしよ、と棚に戻して帰宅。途中、駅前のマックでチーズカツバーガーを買う際に、応対してくれた店員が中年女性だったから、そういえば一昨日、駅からの裏道を歩いている時に中年女性にお尻を掴まれて撫でられたことを失礼ながらも(店員とは似てないけど)思い出す。東京は怖い。
ゴールデンウィークは休めるかな、と思うのは全くの勝手で、あれよあれよ、と全てが仕事で埋まる。何連休もとい何連勤。人が休んでいる時に働き、人が働いている時にも働く。どんな勤勉さなんだ。これが反映してくることを祈るばかり。
公私の、公だった部分が私になり、私だった部分が公になったことに、朝、自転車で事務所へ向かっている途中に今更ながら思い至る。日々の時間は、勿論、公が大部分を占めていて、私は今は殆ど無い。これはこれで、多少の運の流れはあったとしても、自ら望んだことだけれど、ふとした瞬間に、あたしって今どこにいるんだ、と思うことがある。身体は動いているのに脳はそれを認識出来ていない。自分を斜め後ろから見ているような。仕事の進め方や考え方、その他様々な違いを、今までは自分でそれを決めてきた分たぶん明確に見えていて、それがフィットしていないんだろうな、とは思う。けれど、たぶんこれで良いんじゃないかとも思う。アシスタントになりたくて、アシスタントをしているわけではないから。ただ、失うものは多い。得るものは大きいけれど。
金曜の23時過ぎに長野駅に着く。仕事を終え、そのままの格好、荷物で電車に乗ったので流石に寒いかな、と思ったが、雨上がりの長野はどちらかと言えば暖かかった。長野は今が桜の時期だということをすっかり忘れていて、咲いている桜に嬉しくなる。東京よりも桜吹雪が美しい。人身事故の影響でダイヤが乱れていて、ギリギリで新幹線に乗れたから、乗換駅の売店で何も買えず着いてすぐ、駅前の馴染みの店へ。お客のギターの語り弾きを聞きながらシェフにおまかせでと頼んだパスタで夕食。夜中の3時に帰宅。東京は人身事故が多すぎる。
翌朝は9時半に実家を出てお寺へ。自身の転職による引越しや、その他色々な事情から都合が着かず、命日からは大分遅れての父の七回忌。このタイミングで再び父の存在を確かめるとはどんな偶然なんだろうか。何だか笑うしかない。時の流れの早さには驚くが、変化にとっては十分過ぎる時間だった。
2日連続で寝坊。寝起き一番の電話で起きはしたものの、誰かが何かを言っている、ということを遠くに感じながら再び夢の中へ。夢の中でも二度寝。春眠暁を覚えず。毎年、同じ行動をして、同じことを思っている。幸せだけれども、何とかならないものか。
渋谷の街を歩いていると、モンスターハンターP2ndGの街宣車と何度も擦れ違う。遠くからあのメインテーマが流れてくるとどうしても反応してしまい、何となく戦う姿勢になる。街自体が狩り場のような。いけない、いけない、とTSUTAYAへ入れば、そこでも壁やら天井やらにポスターが貼りまくり。今回はもう見送ろうと思っていたのに。
育った地から、同じ県内でも縦に長いから車で3時間は掛かる見知らぬ地でも、何か懐かしさのようなものを感じる。それは標識にしるされた地名からなのか、道の両脇に連なる企業名からなのか、それとも景色を含んだ空気からなのかは分からない。けれど、確かに、ちょっとだけ情けなくなるような安堵感はあった。育った地に特別な思い入れは無い、と思っていたけれど、こういうものは、あるなし、に関係なく、深く身体に染み込んでいるのかもしれない。
仕事が変わり、住む場所も生活も変わってから、色々なことで字を書くことが増えた。以前から、と言っても、もう子供の頃から思っていたけれど、相変わらず字が汚い。思い描く書きたい字はあっても、そのようには書けない。致命的な気もするが、図形認識力が乏しいのかもしれない。そんな時にゲームショップへふらりと寄ったからだろう、美文字トレーニングを購入。1週間程、毎日じゃないけど、続けたら、少し上手くなった。字をゆっくり書くことを覚えた為だろうか。ただ、このソフト、面白くはない。トレーニング、本当に。続けて買ったエースコンバット6は面白いんだろうな、と思いながらプレイ。たぶん今はどんなゲームをやっても、面白いなぁ、とは思わない気がする(美文字トレーニングは別として)。ゲームよりも、1週間1冊ペースだけれど、空いた時間での短い読書の方が今は楽しい。
寝起きは確かに機嫌が良かった。待ってました、とばかりに楽しみな予定のことで頭が埋められていた。それが昼頃には雲がかかりはじめ、夕方には日の光も届かない程の厚さになった。帰宅する頃は勿論と雨。まるで今日の東京の天気と同じようだった。だから、愚痴をついこぼした。一度口から出ると次から次へと雪崩のように出てくる。それじゃあんまりだ、と、不意に相手の話を聞いてみるが、全く耳に入らない。結局、また自分の口が話しだしてしまう。遂には相手の話を聞く気さえ起きなくなった。あたしの口から出た愚痴ははっきりとした形を持たぬ塊となって相手に残る。替わりにあたしに残ったものはずぶ濡れになった自分の姿。愚痴をこぼすならこぼすで、どこにも留まらない、こぼした後で少しでも笑える、そういう言い方、使い方をするべきだと思った。

仕事が早く終わったので、銀座にて催されていた中村仁さんの個展のオープニングパーティに途中参加。行ってみるとObuse Contemporaryで一緒だった作家さんが多く、今日は月曜だし酒は少なめに、と心に誓ったはずが、ついつい飲み過ぎてしまった。流れで三次会まで。Gallery Bar Kajima。そこで飾られていた作品が、割と、何て言ったら何様だ、という感じだけれど良くて、欲しいな、と思ったけれど、5Dを購入した後の財布からは首を振られた。日曜にマガリオが作家さん(名前を失念...せっちゃんと呼ばれていた)にアポを取ったので何も無ければ一緒に取材予定。しかし、最近、人の名前を全く記憶出来ない。他の様々なことも右から左へ抜けてってしまっているけれど、それでも、人名以外のものは薄いフィルターには引っかかっている。そもそも人の名っていうのはどうやって覚えてきたのだっけ、という昨夏読んでいた本で問われていたことを思い出す。
日中の予想最高気温が14℃だったから、昨日までの格好から1枚減らして、まだ薄暗いうちに家を出た。流石に自転車で風を切って行く身体には寒さがまだ堪えたが、昼過ぎにタクシーにて事務所に戻る際には既に春の陽気で、決して早起きからだけではない眠気に襲われた。ここ数日は早めに帰れたこともあり、年始より途切れ途切れに読んでいる明暗を一気に捲る。残りのページ数が漱石の命の灯だということが何とも悲しかったけれど、紀伊国屋で探しても無かったけれど近所のブックオフで100円で売られていた、続・明暗を手に取ると、新しい才能に喜んで、悲しさは忘れてしまった。

後継機の噂が絶えない為、待とうかしら、と迷ってたけれど、出たとしても買えっこない、ということに気付いてついに5Dを購入。殆ど出番の無かったD70sは下取りに。EF50mm F1.8 IIも同時購入。通過するだけだった街を一通り物色してから、帰宅し早速シャッターを切る。セットレンズの24-105mmは価格もそれなりにするだけに優秀なんだろうけれど、単焦点レンズばかり使ってきたから慣れない。しかも重い。50mmはやはりしっくりくる。
あたしに少しでも触れたらケガするぜい、という1日。金属製のものに触るたびに、ビリッ、と静電気を発生させていた。端末に触るのも恐る恐る。気温が低く乾燥していた為だろうか。東京に来てから肌がカサカサして仕方がない。もうボロボロ。マガリオによると加湿器が効果抜群みたいだけれど必須よね。と言っても、自分の部屋には帰ってきてもシャワー浴びて寝るだけ、という生活が続いているから、事務所に導入してもらわないと意味無いか。
メガネ美人よりチョコ。本当に予想外でどんな反応も出来なかった。情けなし、と肩を落として、溶け始めているハート形のチョコを冷蔵庫に入れた。明日もたぶんスタバでコーヒーを買えば貰える。
大晦日は実家にて妹夫婦希望のテレビ番組を観て、そばを食べる。ひゅっと年が暮れて、明けて、おめでとうと皆で言ってから、くるぶし辺りまで埋まってしまう雪の中、自分の部屋まで歩いて帰る。除夜の鐘を聞きながら。
先日の季節外れの雨の日の忘年会の帰り、タクシーを止めようとする手を途中で下げて、雨上がりの道を歩いて帰った。お金を払えば確かに送り届けてくれることよりも、歩けば着くというシンプルな安心感を確かめたかった。雨上がりの大気は澄んでいて、月明かりだけで雪を冠った遠くの山の稜線がはっきりと見える。空中に残っている水分が灯りをきらきらと輝かせる。気温は高めで、もの凄く寒いってわけではなかったけれど、外気に長時間触れていると流石に寒さを感じる。が、やはりあたしの隣で速度を落とすタクシーには乗る気にはなれず、部屋まで歩いて辿り着く。50分程。色んな意味でちょっと得した気分にはなったけれど、何が変わるわけでもない。でも歩けば着くんだ、ということを再認識できたし、歩くことでしか見えないこともある。景観だけじゃなくて。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくです。
昨日から降り始めた雪は今日になっても降り続いていて、高校サッカーを程々に、雪かきをする。毎シーズン、最初の雪かきは楽しいもので、かまくらにしようか、それとも雪だるまにしようか、などど考えながら雪を一カ所に積む。ま、結局かまくらなんて作らずに暖かい部屋に戻ってしまうけれど。でもやはり正月は雪が積もっててこそ、だと思う。
大掃除よりもまず荷造りだ、と荷物をまとめ始めるが一向に進まない。思った以上に荷物がある。だから、不要なものから処分してしまおうと、本、CD、ゲームを売りに行く。といってもそれらは全体の2割程度だからあまり変わらない。家具、家電をどうにかしなきゃ始まらないな、と友人と話すが、次の住処が決まっていないから動かすことも出来ずに、無駄に埃を舞い上げて、鼻水やくしゃみが止まらなくなった。もっと身軽に動けるものと思ってたが、長く暮らすということは恐ろしい。捨てられないものが増えて行く。
土曜のワークショップの打ち合わせの帰りに、発売してたよ、とメールにて連絡のあった、これはたぶん買えってことなんだと、bump of chickenのorbital periodを購入。店員の態度が非常に腹立たしかったけど、購入。流行りの特典DVD付き、ではなく、童話付き。変わらずに良い、というよりも、変わらないのに良くなっている、という作品作りはきっと見習わないといけない。
電話は常にだけれど、唐突に鳴る。甥っ子を連れて買い物に出た妹から、車のバッテリーがあがったと連絡がきたが、こちらは仕事で外に出ていたので、丁度休みだった友人に駆け付けてもらう。友人にバッテリーの型を調べてもらって、帰りがけにカー用品店にてバッテリーを購入し、少し遅れて駆け付けた。バッテリーの交換後、ショッピングセンターに併設されていたマックにて友人とお茶。その時、電話は鳴った。で、来年早々の東京移住が決定。ま、かなり驚いた。耳を疑った方が良いのかしら、いや、記憶か、など。でもまぁそんなことは言っていられない。現実的に動かなければ。その場にいた友人は、夢は広がるなぁ、と言ったけれど、決して夢ではなく、現実を捉えて選択したことだから。ということで、年末年始は慌ただしくなりそう。
割と唐突に大人の科学マガジンVol.17(テルミンmini)が宅急便で届く。発売直後、近所の書店を探しまわったが置いてなくて、ネットで調べてもどこも売り切れで諦めたはずなのだが、どうやら学研で予約注文をしていたみたい。早速ミニテルミンを組み立てる。簡単だけれどネジが微妙。なめてしまう。まぁ価格的に仕方がないけど。音を出してみると、面白いことは面白いけれど、それは回路、仕組みで、楽器を弾いているという感じではない。指の動きを洒落てみれば弾いている感じはする。どれだけの精度を出せるのかが問題だけれど、例えば公道に何となく置いておくと面白いかもしれない。
現在使用しているマウスは過去に2度無償交換をしてもらっているが、やはり暫く時間経つと調子が悪くなってくる。今もまたその時期で、たぶんサポートに問い合わせれば無償交換になるだろうけれど、交換したからと言って、その後問題無く使用し続けられるということは無いだろうから、とマウスを探し始める。ここ5年程はワイヤレスを使用しているので、ワイヤレス製品を探すが、目に留まるものはその殆どが乾電池駆動。環境問題、と言うとちょっと大袈裟かもしれないし、無知を露呈することにもなるかもしれないが、イメージ的に非常に良くない。乾電池で何時間持とうが結局は使用したものは廃棄するしかないのだし。コスト的にもどうなのかな、と。だから出来れば充電式を選びたいのだが、その中に欲しいものが無い。乾電池式の方が便利だということは分かるのだけれど、何かどうしてもなぁ…。諦めて充電池で、という手もあるか。
結局、好きか嫌いか、ということでは無かったけれど、この言葉を聞くと答えを持っていない者としては警察官を見たときのように、ついギクリとしてしまう。上辺だけだったり対象が趣味の範囲にあるものだったら、容易にどちらかは選択出来るけれど、そうではないもの、継続、反復を意識的にでも無意識的にでも自己の中に座してしまったものについては、核心をつい考えてしまい、答えられない。好きでもあり嫌いでもあり、好きでも嫌いでもない、ことがどうでも良くて、でもどれをも包括している。またそれらを受け入れる覚悟があるんだと言う事だとは思う。ただ、これを伝える言葉を持っていない。で、ギクリ、としてしまうのは、その無知をつつかれた気がするからだろう。たぶん今回は焦って、好き、だと思います、と答えた気がする。修正したいがサイトのようにはいかない人間の言葉。
予定を調整出来なかった為、1泊はしたものの実質半日だった東京滞在。machidaさんとmagarioと朝まで飲んでしまう。本当に久しぶりの酒で長野に帰ってきた今も膝から下にアルコールが残っている感覚がある。思い返すとちと喋りすぎたかな、と。帰りは東京駅まで行くが、ふと気が変わって新宿からバスにて。長野に近づくにつれ見える街の光が少なくなって、または途切れて、窓は徐々に冷えていく。乗客も疎らで何となく寂しさを携えている。新幹線だったら2時間で着いてしまう距離だけれど、風景が速度で振り落とされてしまっている感じがするからだと思う。一人ならば帰りはバスを使うことが多い。
金曜にlost odysseyが届いたから、週末は気を抜いた途端に、ゲームだけで1日が終わる、ということになりかねない、と小学生の頃のようにスケジュールを立てて、自身を律する。まぁ週末だから1日中ゲームでも良いのだけれど、今週はそうゆうわけには行かない、というか行かなくなった。でも、でも、やりたい、と作戦を練った結果、食事を作る時間を省く、ということになり、その為カレーを作る。大量に作れば、食事の度に暖めれば良いだけだし、カレー好きとしてはやはり大量にあるのを見ただけでちょっと幸せになれる。作るのも、始めだけ切ったり炒めたりするだけで、後は煮込むだけだし。しかも、あたしはカレー作りには相当な自信があるのよねん。…ということだったはずなのだが、いつもの手間を省いてしまった為か、調理をしているのを忘れた為か、見事失敗(鍋の底に焦げた具材が…)。カレーなんてどうやったら失敗すんねん、などと思っていたんだけどな…。焦げた香りと苦さが少しあるだけで食べられないことはない、というか、食べられるものに収まったので問題無く、毎食カレー、という週末を過ごせたけれど、苦さを感じるたびに塵程のショックが積もった。
昨日は睡眠時間を程々に早朝から起きていて、そして珍しくアクティブな一日だったからだと思うが、風林火山を観ていた後の記憶が無い。気付いたら夜中だった。ソファの上でも座布団の上でもなく、直にカーペットの上に寝ていたから身体のあちこちが痛く、でもそれよりも空腹が酷く、夕食後は寝ていただけだのに、と不服ながらもインスタントラーメンを茹でた。夜食で眠気は完全に飛んで、週明けにと残してあったasのシェイプアップを行う。だがすぐに終わってしまい、夜が明けるまではまだあるな、と先月中頃から借りたままになっていたマイ・プライベート・アイダホを観る。最近はガス・ヴァン・サント作品ばかり。
朝が来ても一向に眠気は訪れず、普段は摂らない朝食を買いにコンビニまで行くと何人もの登校中の中学生とすれ違う。どの子も防寒着を着ていない。自分の頃は…と思い出してみると、確か着ていたし、寒いからと親に強請った記憶もある。まだ本格的な冬の寒さが到来していないからか、流行りなのかは分からないけれど、何れにしても恐ろしいな、とパジャマの上にジーパン、パーカー、ダウンジャケットという真冬の出で立ちのあたしは思う。で、その横を、中学生よりも更に寒そうな格好をした女子高生が自転車に乗って通り過ぎて行く。
実際はどのくらいなのかは分からないけれど、最近、長い夢を見る。パッパッと場面転換していくようなものではなくて、長回しのような。起きるとどの夢も重要だというメッセージが後に残されているのだけれど、そのどれも外枠しか思い出せない。ぼんやりと浮かぶ人物に一日中惹き付けられる。
知らぬ間に人差し指を突き指していて、ギターの弦をここ10日程押さえられなかったが、今日、やっとまだ少し痛みはあるものの再び押さえられるようになった。煮詰まったら少し時間を置いてみよう!上手くなっていると感じるはず。とどこかで読んだけれど、全く変化なし。出来ないものは出来ないし、出来てたものはそれ以上にはなってはいない。継続あるのみ。そういえば先日、人差し指を指して、この中指が、と説明してしまった。言いながら何かおかしいぞと思い、中指の名称を考えたが分からなくて、最終的に出した答えがお兄さん指。間違っちゃあないけど…。でもまぁ確かにお兄さん指。で、人差し指はお母さん指。
夜中に煙草を買いに外に出るとパラパラと雪が舞っていた。一昨日の朝も予報通り降ったようなのだが起きたのが昼近くで、跡形も無くなっていたからこれが今シーズン初雪。皮膚に当たる一瞬の冷たさが気持ち良くて、そのまま暫く散歩でもしようと帰路を変更したけれど、煙草を持つ指先が寒さで痛くなって引き返した。途中、断続的にクラクションを鳴らしながらフラフラと走る車に出くわす。リズムを取っているようだったがそれが何かは分からなかった。明日は昼過ぎより出掛けなければならないから、雪が積もってもそれまでに融けるのを祈るしかない。春にオーバーホールに出したRX-7は夏が過ぎ、秋が過ぎても出来上がってこない。履き潰しても構わないと、今の車のスタッドレスは昨シーズンより履きっぱなしで、もう全く役には立たないだろう。
久しぶりに切手を買うと、デザインがちょっとおしゃれになっていた。80円普通切手キジバト。
フットサルの練習中、背中を駆け上がる寒気を感じたが、身体を動かしていたから特に気にもしなかった。だが帰宅後暫くしたら瞼が熱くなり始めて、節々にも違和感が出てきて、鼻水、くしゃみが止まらなくなった。1年前の同じ頃は体調を崩して1週間程寝込んでいたな、と思い出したが、今は食欲も十分にあるし、然程心配する程度ではないと、少し横になると大分楽になった。今日は一日中、いつ雪が降り始めてもおかしくない空だった。明日の朝は雪が積もっているかしら。
数ヶ月振りに甥に会うとまだ歩きはしないものの、立って1歩だけ進めるようになっていた。顔を忘れられてしまったのか、珍しいものを見るように無言でずっとこちらを見ていて、そのうち近寄ってきて腕やら足やらをポンポンと撫でるように叩く。一時は暗い顔をしていた妹もここの所吹っ切れたみたいで明るい。もうすぐ生まれて1年。1歳のバースデープレゼントはリロ&スティッチの三輪車(妹のご所望品)。1年とは早い。
金運が☆5つ中4つだったが、その他恋愛運や仕事運は☆5つ。仕事をしなければ外に出る事もなかった今日ではどうしようもない。明日は今月のラッキーデー。
運送会社から「〜住所は以上で宜しいでしょうか。宜しくお願いします。」とだけ留守電に吹き込まれていたがこの場合どうしたら良いのか。不在通知も入ってはいない。ま、再度訪問してくれるだろうと1日待つが来なくて友人に聞いてみると、そのまま送り返されちゃう場合もあるよ、ということで慌てて電話。受付の女の方に事情を話したがドライバーが分からないので翌日以降お届けします、とのこと。あらら、と思った次の瞬間、知らぬ携帯から電話が入り出てみるとドライバーさんから。10分後には無事受け取れたが、今日注文した品に関しては配送業者が選べたので、しっかりと選ぶ。
アウトレットで新品の半額だったAria Sinsonidoを購入。中学校で1年間ギタークラブだったけれど、ギターを持って行くのが怠かったり、一応は授業枠でのクラブ活動(部活とは違う)だったけれど強制でも無かったから殆ど出席せず、だから基本的なコードしか弾けない。10年経った今、再度ギターを弾いてみるが驚く程弾けない。というか押さえられない。記憶を辿ってGLAYだったりスピッツだったりと当時コピーしていた曲のコードを記憶を探りながら弾いてみるけど、こんなだったか、と。そんなことやってるうちに指先は赤くなり、キーボードを打つのも軽い痛みを伴うようになった。一朝一夕といかないのは分かってるつもりだけど出来そうな気はしちゃうんだよなぁ…。
届いたままテレビの横に置かれていたアイロンと朝の詩人を捲る。日本語への嫌悪感は治まったものの、文字の意味が全く掴めない。あぁ、成る程、昨日英語に行き着いたのはこの為か、と思い至った。脳が文字の意味を拒否していた。単なる記号だろ、記号、と。だから、英語の、というかローマ字の一字だけでは意味をなさない、シンプルな記号を選んだのは自然な流れだったのかもしれない。事実、英語が読めないなんてこれっぽっちも思っていなかった(実際は辞書がなければ読めないけれども)。漢字はそれだけで意味がある。ひとつとは限らず複数あったりする。ひらがな、カタカナだけだったらまた違ったかもしれない。
ページを捲る手が5分以上動かない時もあったと思う。一字一字を確認しながら、読んだ端から抜けて行く言葉を繋ぎ止めながらゆっくりと時間を掛けて読み進めた。そのうち五文字読める様になり、十文字読める様になり、一行読めるようになる。日本語の記憶方法を一から習得しているような感覚。でも確か文字って書いて覚えたよな、とも思う。書く事をしなくなってかなり経つ。その間に、字を書くよりもキーボード入力の方が早くなり、記憶を記録としてハードディスクに委ねることの不信感も殆ど無くなった。こうやって忘れて行く。ただこれが悪いとは思わない。簡単に言ってしまえば、そういう時代だし、忘れてしまうような言語は他の言語に淘汰されても良いと思う。寧ろ、地上に国境の無い、海に隔てられているこの国にとってはその方が良いんじゃないかとも思う。
結局、半日程かけて読み終えた。落葉を乗せてサラサラと流れる小川のような文章が心地よかった。
昨夜は遅々として読み進められない本を読んでしまおうと、端末も全て落として読んでいて、終章だと思った所までは覚えているが、その後の記憶が無い。起きてみると昼過ぎで、床で寝ていた。始めは椅子に座って読んでいて、そのうちソファに移り、腰が痛くなり横になって、その体勢も辛くなって椅子に戻り、座る姿勢が崩れて床に座り、尻が痛くなってソファに移り…。起床後は怠くて仕方がなく、頭も重く、暫くそのまま仰向けでいたけれど、メールチェックだけはと端末に向かい、いつものように煙草に手が伸びて吸うが脳が締め付けられるような痛さに見舞われる。本当に毒なんだな、と。このままじゃ、とシャワーを浴びて、少し散歩に出ると大分体調は良くなった。が、結局、今日は怠いや、という甘えで殆ど何もしなかった。
鬼束ちひろの新しいアルバムを聞いて、あれ、おかしいな、と思ったのは久しぶりに声のある音楽を聞いた為だった。ただそれ以外でもiTunesから聞こえてくる音が何となくのっぺりしている感じはする。イコライザーを弄ったわけでもないし、これはどうゆうことか。メンタル的な問題かしら。鬼束ちひろのアルバムに付いていたPVはやっぱりイマイチ。
頭の重さからか、日本語がついに嫌になって英語のニュースサイトを巡る。少ない知識と辞書を手に。ネット上にも使えないけれど取りあえずの翻訳サイトや辞書もあり、ただネットに繋がっているだけってことで言語は学べるのだな、と今更ながらに思う。最近はYouTubeなんかもあるしね。そんな迷走をしている中で、ふと思い出してapril gornikのサイトを数年ぶりに見てみたら、何だか分からないが泣きそうになっていた。そして、本物が見たいなぁ、と。本物が見たい、なんて以前は何に対しても思っていなかったと思う。モニタで十分見られるじゃないか、と。そのモニタがやけに虚しい。これは今年、自分の作品ということではなく、美術館と関われたおかげかもしれない。